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読書記録

トリニティ

『トリニティ』 窪美澄


1960年代から80年代、日本の雑誌文化が花開いて行った時代、その人気を牽引する雑誌を次々と創刊した出版社があった。そこで働いていた三人の女性たちの、三通りの人生を軸に、大正、昭和、平成へと至る時代の変化、特に戦後の昭和史を絡ませながら進む物語。
 
一度は親に捨てられ、辛く貧しい幼少期を田舎で過ごして来た美大生妙子は、潮汐出版の新刊雑誌の表紙を飾るイラストレーターに大抜擢され、「早川朔」として鮮烈なデビューを飾り有名になって行く。祖母、母、自分と三代に渡り女性文筆家として活躍して来た東京のお嬢様育ちのフリーライター登紀子は、フリーではあっても人気雑誌の影の編集長とまで呼ばれていた。下町の佃煮屋の娘鈴子は、高校を出て潮汐出版でいわゆるお茶汲みOLをしながら、結婚して専業主婦になることを望んだ。


有名イラストレーターの妙子、フリーライターの登紀子、いわゆるお茶くみOLの鈴子。生まれも育ちも個性も全く違う3人の女性たちが同じ出版社で出会い、昭和の高度成長期から平成不況の時代をそれぞれどう生きたか。


出版業界と言う特殊な、ある面都会の上澄み、時代の雰囲気を先取りする世界を舞台に、女が自力で食べて行くこと、才能を生かすこと、仕事、男、結婚、子供を持つこと、そのいずれも手に入れようとする時に世間は、身近な人々は彼女たちにどんな風を吹きつけるかが、決して幸せとは言えない形で浮かび上がる。


作中で1968年10月の国際反戦デーの夜、のちに「新宿騒乱」と呼ばれる様になったデモを見物に行った3人の様子が特に印象に残った。大人しい鈴子が言い出して3人がデモ見物に行き、学生たちに混じって石を投げながら大声を張り上げるシーンだ。


〈「馬鹿にするな!」「私のことを鈴ちゃんなんて馴れ馴れしく呼ぶな!お茶汲みなんか誰でもできるって馬鹿にするな!」「馬鹿な男どもの下で働くなんてもううんざり!」「ふざけるな!男どもふざけるな!女を下に置くな!」「男の絵なんか描きたくない!好きな絵を好きなだけ描きたい!」〉


ベトナム反戦には全く関係ないことを叫ぶ3人。「安保反対!」「米タン阻止!」の叫び声、学生達の投げる火炎ビン、機動隊の放つ催涙弾が飛び交う中で、その場に居合わせた彼女たち、それ以外の様々な女性達の姿…。言いたいことを誰にも邪魔されずに言ってきたつもりの登紀子でさえ、それでもまだ自分には声をからして言いたいことがあったのだと思うシーンに、あの時代の女性達の立ち位置、言葉にならない熱を帯びた叫びを感じて心の深い所をズシリと殴られる様な気がした。


また、生き方に選択肢が少なかった時代よりも、表面的には女性の自立や活躍の幅が広かったかに見える今、女達の生き方はむしろ一層難しくなっているのかもしれないとも思う。特に3人の中で一番平穏な見合い結婚をした鈴子の孫娘奈帆が就活に苦戦し、ようやく決まった小さな出版社の激務に体調を崩して心療内科に通う様子は痛々しい。


その奈帆が、祖母の鈴子と一緒に妙子の葬儀で老いさらばえた登紀子に会い、彼女から妙子の人生、登紀子自身の人生、祖母を含めた3人の生きた時代の話を聞くために登紀子の家に通う所からこの物語は始まるのだが、どう生きていけばいいのかわからなくて追い詰められた奈帆が、かつて著名なライターでエッセイストの登紀子、時代の先端を行くイラストレーターの妙子の人生を知ることで、迷っている自分のこれからの道を開く何かを掴みたい、その必死な思いに一番共感できた。


妙子や登紀子の昭和の華々しい活躍とその後の凋落ぶりに、自立した女の生き方と幸せはイコールではないと思ったり、それでも奈帆が彼女たちの人生の軌跡を書き残したいと思い、鬱とパニック症を少しづつ克服しながらライターとして新しい人生を踏み出そうとする姿にグッと来るものがあった。


才能を見出された妙子も、時代の流れに乗って物書きとして活躍した登紀子も、専業主婦を選んだ鈴子も、それぞれの場所でもがきながら女の人生を必死に切り開いて来たことに変わりはない。そして彼女たち3人の生きた軌跡を書き留め、遺そうとする、現代を生きる奈帆にどの時代にあっても自分らしくありたいと願いながら必死に生きる女の人生が引き継がれて行く姿が良かった。


どんな生き方をしようと、そこに正解は無いだろうし、現代では男が、女が、と二分されて来た社会が多様化してもっと複雑になって来ている気がする。けれど、現代に至るまでに必死で社会に居場所を切り開いて来た女性たちのことを忘れることはできない。読み終わってそんな気持ちになった。f:id:aromatomoko:20190609212906j:image