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読書記録

西瓜糖の日々

西瓜糖の日々 (河出文庫)

『西瓜糖の日々』
 リチャード・ブローティガン   藤本和子


アイデス〔iDEATH〕のすぐ近くの小屋に住んでいる「私」が語る日々。「私」には決まった名前が無い。私たちがノスタルジックに思い浮かべることがあったら、それが彼の名前になるらしい。


彼の住んでいるところはコミューンの様な「アイデス」と「町」と「忘れられた世界」に分かれている。アイデスには沢山の川が流れていて、いくつもの橋がかかっている。そこでは全てのものが西瓜糖で作られ、橋も建物も服も、ガラスも、板も西瓜糖から出来ている。インクも西瓜の種から作られ、ランプの油は西瓜糖と鱒油を混ぜたものだ。アイデスの人々は日々の食事をほとんどアイデスで取り、アイデスで寝泊まりする。しかし時々は町で食事をし、時々はアイデスの外の自分の小屋でも過ごす。


【アイデスでは、どこか脆いような微妙な感じの平衡が保たれている。それはわたしたちの気に入っている】


はじめのこの一行が、西瓜糖のクリスタルでできているような印象のアイデスと、そこに住む人々の雰囲気を一番よく表していると思う。


かつて、アイデスには「虎の時代」があった。人と言葉が通じ合う虎たちが人を食い殺し、「私」の両親も目の前で虎に食われた。でも、虎たちは子供に親切で美しい声をしていて歌が上手かった。最後の虎が死んだ後、アイデスは平穏になり、普通に亡くなった人は川底に葬られる。夜になると橋のランタンが灯り、墓は美しく輝く。


アイデスの時間や暮らしは眠っている時に見る美しい夢のようだ。個人的な強い感情は無く、離人症の様に風景や自分を眺めているあの感じ。


一方でアイデスに不満を持ち、「忘れられた世界」の入り口にみすぼらしい小屋を建てて集まっているインボイル〔inBOIL〕と仲間たち。忘れられた世界の物を掘り出し、それからウイスキーを作っていつも呑んだくれて怒っている奴ら。「私」の恋人だったマーガレットは忘れられた世界の物を集めてコレクションするのだが、「私」はそれが気に入らなかった。彼女がインボイル達を避けない事も。そして「私」はマーガレットと会わなくなり、マーガレットの友人のポーリーンと恋仲になる。


詩のようで幻想的な世界に魅入られるように読んで行くが、アイデスの刺激の無さすぎる静かな平穏さに満足しきった人々と、雑多でキッチュな物が蓄積している「忘れられた世界」を好むインボイルたちの狂気と血にまみれた行動、マーガレットの存在の対比が衝撃的だ。


果物の中でも酸味が無く、薄甘い西瓜。その西瓜を煮詰めた西瓜糖で出来た世界…。静かで、平和で、つましくて、透明で美しいけれど何かが欠落している気がする不思議なアイデス。眠りが一種の死であるならば、夢を見ている時に、私はアイデスに行ったことがあるのかも知れない。そんなことをふと考えた。そして目覚めているここは「忘れられた世界」の過去の姿なのかもしれない、と。
読み終わって、夢から醒めた様に名のない「私」の記述をぼんやりと反芻している。